物事の願望成就や成功結実には運(生成の気)だけでは成立と永続は果たせません。普段からの鈍(どん)(謙虚な心)に当る努力と根(こん・育成の気)に当る要因があって成立します。
前回の「運とは?」に続いて今回は第二の「鈍(どん)とは?」です。
一つの鑑定なり判断をする時において、第一に「運」というめぐりが盛んであるかどうか。第二に「鈍(どん)」の要素でありますところの、成就には下向きな努力と謙虚さが求められる事が多いです。そして第三が「根(こん)」の先祖から受け継がれている「器」の要素であります。永続なる成功を果すためには、こうした基準を目安として判断致します。
鈍とは「にぶい」と読みますが暗悪のことではありません。
誠実と忍耐と謙虚さと努力で、物事に打ち勝つことが「鈍」の徳であります。「鈍い」と言う事は何事も承知していて、鈍く行動すると言った面が要求されます。
ある流行歌手が一曲の歌を長年の間、歌い続けることにより大ヒットに結び付けたと言うのは、こうした鈍の面を良く表していると思います。
別段歌い方を変えた訳でなく、一つの曲をひたすら誠実と忍耐と謙虚さと努力で物事の成就へと進みます。こうした一途な行動が、自ら変わろうとしなくても、世の中の流れが変化して時代の中へ受け入れてもらえる「運」のめぐりが訪れる訳で大ヒットに結びつくことになります。
一人の歌手の職業についてでありますが、他の職業の要因にも言えることであります。人間関係においても叡知敏感なる要素の対応は、時として高慢にもなり、井の中の蛙ともなり大きな運を取り逃がすことにもなります。
結果や目的と言ったことを考えずに、ただただ下向きに努力する、今日一日一生懸命に努力すること、こうした鈍なる行動は時として、大きな運を掴むことになるのであります。
物事に対して余りにも用意周到に走りすぎたり、叡知敏感なるがゆえに自分の実力の半分も発揮出来ずに終ってしまうこともあります。
スポーツの世界の人たちに良く見られる言動でありますが、常に相手や周囲の人たちの健闘をたたえ、自らは決して誇らない姿があります。勝ってもおごらずにインタビューされている姿は一流選手の持っている謙虚さであり、鈍なる姿勢であります。そうした姿なり態度が示せると言うことは、自己の精神や身体を練習でぎりぎりまで厳しく鍛練して啓発努力しているから言えることであり、自分自身との戦いに勝利して来た人の姿でもあります。
運を開かせられずにいる人は常に下向きな謙虚さを忘れ、人の言も聞かず、聞いても自分の都合を行い、自分の精神や感情をコントロール出来ずに高慢なる「お山の大将」を誇示している人であり、一時は良いように見えても短期繁栄であり、また元の木阿弥になって終るのであり、同じ過ちを何度も繰り返すことになるのです
自分自身が努力も忍耐も謙虚さも忘れ高慢さに終始し、人から成功者と呼ばれたいと言う「我欲」の強い人は世の中の失敗者の中に多く見受けられる共通の姿であり、自分自身の精神力に負けている人であります。
人生は「生き様」を示すものであっても、常におごらず、高ぶらず地道に努力して行く人が勝利者であり、鈍の精神でもあります。
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