市販のエンディングノートの大半には、「葬儀に呼びたい人・呼びたくない人」を書く欄があるのですが、私が主宰する任意団体<ひとなみ>の座談会で、あるとき一人のお坊さんが、「それを書いちゃうと、生きてる人の人間関係がめちゃくちゃになる」と発言したんです。
なるほどなぁ、と思いました。
後日の法要などの折に酔って、「なんであいつの葬儀にオレを呼ばなかったんだっ!!」と絡むようなシーンが、なにかの映画にあったような気もします。
故人となった親御さんは「葬儀に呼びたくない」と心底思ったかもしれませんが、息子さんは小さい頃から、その「父の友達のおじさん」に世話になったと感じているかもしれないのです。
「なぜ呼ばなかった」と聞かれて、「だってエンディングノートに故人がそう書き残していたから・・・・」などと、本人を前にしては言えないでしょう。
葬儀が縮小化してゆくのは、昨今の人が儀礼を軽視しているから、などという単純な問題ではないと思います。
個人の生活の自由を尊重し、「迷惑かけたくない」という気持ちを大事にする世の中では、故人の交友関係を親族がよく知らないので、誰と誰を葬儀に呼べばいいのかわからなくなっているのです。
昔なら、町内会名簿や社員名簿を見れば呼ぶメンバーを決められただろうけれど、いまは地域のつながりも終身雇用も崩壊しているから、「エンディングノートに葬儀に呼びたい人・呼びたくない人を書いておくでもしてもらわないと、誰を呼べばいいのかわからず、家族葬にならざるをえない」という見解もあります。
でも、買ってきたエンディングノートをひろげて、「葬儀に呼びたくない人」という欄があったら、誰しも少しばかりは書くのに躊躇するんじゃないでしょうか。
だって、そこに名を書かれた本人は存命なのです。万が一にも、生きてるうちに、そう書いたことが人づてに本人のもとへ知れたりしたら・・・・・・?
では逆に、その「躊躇した気持ち」を大きく育んでみませんか?
エンディングノートを手にしたその日からが、終活のはじまり。
この世に、恨むべき気持ちを残さないよう、たとえいまは「あいつ呼びたくない」と思ってしまったとしても、その気持ちを消し去ってゆくために、残りの余生を生きてみませんか?
葬儀に呼びたくない人、0人運動!!
そうはいっても、憎らしい気持ちはそう簡単になくなるもんじゃありませんよね。
そんなときは、お坊さんの出番です。
「私、どうしても“葬儀に呼びたくない人”欄が0人にできないんです」
と、その人との関係のいきさつを吐露してみてはいかがでしょう。
傾聴していただくことで、気持ちがおさまることだってあるかもしれません。
最近Okeiがはまっている“復縁プログラム”の伝道師のキメ台詞をご紹介しましょう。
「もっとも不幸を呼ぶ言葉。それは、
“ ゆるせない”
です。」
人生の終わりに、「ゆるせない人」がいなくなるよう、終活してみませんか?
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