【虐待を見逃さない視点と許さない心】
- 2012年6月 3日(日) 10:05 JST
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- 投稿者:
- 村越 真里子
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今年も早、6月。
私の住む関西の梅雨入りももう間もなくと思います。
昨日の午後は暗雲が立ち込め1時間近く雷が鳴りました。
昔は雷おやじと言う言葉がよくありましたが、最近の男性は皆、穏やかで、ともすればママの方が怖いというお子様も多くいらっしゃいます。
ただこの怖いという思いは、自分にも悪いことをしたとか、叱られて当然という身に覚えがある内はいいのですが、いったい何を叱られているか分からないと言う時には、多分に叱る側に問題がある場合も多いのです。
家族で暮らしていると、子供たちの目に余る行動や行儀の悪さには、ルールを教えていかなければなりません。
しかし、その教えが教育やしつけという大義名分で体罰になります。
私には孫もいて、その孫の頭のよさには、手前味噌を通り越して、関心しています。
いくら幼くても、その年齢なりに説明すれば理解をするという事を知っています。
私も昔、犬を飼っていてしつけの為と、叩いていたことがあります。
もちろんペットと人間の違いはありますが、私が手を挙げた時のおびえる三角の目を未だに忘れられません。
身体の大きな者が教育とは言え、身体の小さな物や者に手を挙げるという事はやはり、そこには支配という感覚があります。
幼い子供に弱いものいじめをしてはならないと、教えながら、その親自身が、子供に力づくで示すものがあってはならないと思います。
時々、幼い子供が自分の父親や、母親の内縁の夫に虐待され、亡くなるニュースが流れます。
そういう父親に限って無職であったりするのに、しつけの為に体罰をしたと言い訳します。
私はそういうニュースを聞くたびに、身震いがするほど腹が立ちます。
何故、母親が子供を守りきれなかったか?
こういう場合はたいてい、その子供の母親もその夫の暴力にあっています。
私なら、何が何でも子供を守り、そんな夫とは別れるのに・・・と思うのですが
暴力とは、そういう気力すら奪い取ってしまうものなのですね。
近々のニュースでは、食べ物を与えて貰えず、餓死した子供の胃袋に自分の髪の毛やビニールがあったと言います。
子供が頼りにするのは親しかいないのです。
その親に食事も与えて貰えず餓死していく気持ちを考えると、どんな理由があっても許せるべきものではありません。
動物園でも子供を育てられず育児放棄をするゴリラがいます。
そのゴリラには母親失格という烙印を押し、飼育員が赤ちゃんゴリラを育てます。
本能しかないようなゴリラでもそうなのです。
人間も結婚をすれば、子供が生まれます。
かと言って子育てできず親になれない人間がいるという事も事実です。
この世の中に生きていて、当たり前の事が出来ない人がいるので、親が子供にとって一番ベストな
近親者という見方を外さなければ、どれだけ児童相談所の相談員を増やしたところで何も解決しません。
児童相談所の相談員でも、物事を見抜けない職員がいます。
子供を授かっても、子育てができない母親がいます。
幼い子供を八つ当たりのように体罰をし、・・・いえむしろ体罰を通り越し、力の加減も考えず死に至らしめる父親がいます。
社会人になれないニートがいます。
先生でも、人を導けない人はいます。
警察官でも犯罪を犯す人がいます。
こういう人には何故なんだろうという疑問を挟んでいる時間は必要ありません。
冷たい言い方ですが、自分の分(ぶ)が果たせない、失格者がいるという事を認め、早くその犠牲になっている弱者の救済にかかるべきです。
何故こうなったか、どうしてこの親は子供に虐待をするのか?
そういう分析は専門家に任せて、私達が出来るのは、少しで犠牲者の助けをするべきだと思います。
こうした虐待をしたことへの刑が軽すぎると日頃感じています。
重刑にしたとしてもそれが犯罪の抑止力になるかどうかは、分かりません。
でも、躾イコール体罰という言い訳を声高に言う社会通念を変えて行かねばならないと思います。
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